安装大门吉日怎么祭神?

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三嶋大社(みしまたいしゃ)は、大宮町にある。()、?。はで、現在はの。
東部の基部、の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧、南に旧が走る。周辺はの中心部としてのあった地で、のちに三嶋大社のとして発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。
社名の「三嶋」とは?等から成るを指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。に入ると、伊豆国のとして始め多くの武家からの崇敬を集めた。以降は三島が東海道のとして発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
境内では本殿?幣殿?拝殿が国のに、が国のに指定されている。また社宝では、の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。
「三嶋」とは「御島」すなわち伊豆諸島を意味するとされる。
社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える。
三島大社/三嶋大社 (『』)
伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『』)
三島社/三嶋社 (『』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)
通説では、「三島」の呼称はに対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは13年()に「伊豆三島」の記載が、の『』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説としての(大三島神)を由来とする説もある。
現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代にはのがあったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。
以下本項では、神名としては社名にならって「三嶋」の表記を使用するが、史料の引用では常用漢字体を使用する関係上「三島」の表記を使用して解説する。
祭神は次の2柱。
(おおやまつみのみこと)
(つみはやえことしろぬしのかみ)
2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。は。
三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説?事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、の『』に始まって『』『』『二十一社記』『』等の諸史料に見える説である。三嶋神がの(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。一方の事代主神説は、後期のの『』での主張に始まる説である。の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、6年()に事代主神に改められた。その後期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が27年()に制定されて現在に至っている。
近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神?航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。
伊古奈比咩命
(新宮勧請?)
伊古奈比咩命神社
伊豆三島神社
三嶋神の後后?伊古奈比咩命を祀る。一説に三嶋神の旧鎮座地は白浜であるという。
創建は不詳。後述のように『』には(伊豆半島南部?伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は)と相違することから、遷座説?郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『』4年()の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(か)、のち賀茂郡大社郷白浜(付近か)、さらに小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名からの(大三島神)との関係を想定する説もある。
史料の初見は2年()で、「伊豆三島神」に対して10月2日に9戸が、12月に4戸が授けられている。その後国史では9年()の記事で、神異により三嶋神?伊古奈比咩命神()をとなし、地2,000に「神宮二院?池三処」を作ったと記される。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神?伊古奈比咩命神と同一神であるとも考えられる。
三嶋神の本后?阿波咩命を祀る。
『』の記事によると、5年()7月5日夜に上津島()で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階()を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命;)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の;)の神階が無位から従五位下に昇った。
その後、当社には3年()に従五位上のが授けられたのち、2年()に従四位下、元年()に従四位上、貞観6年()に正四位下、貞観10年()に従三位が授けられた。
5年()成立の『』では、に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、に列するとともに?でに預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によると、当社には「三島神料」として2,000束が下されていた。
年間(-)頃の『』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社?伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる。
に入ると、当社は伊豆国での地位に位置づけられたほか(初見は元年())、伊豆国のも兼ねたとされる。『』(2年()以前成立)では「正一位三島大明神」と記載されている。
源頼朝の三嶋神に対する崇敬は篤く、当社に重ねて戦勝祈願と寄進を行なった。
『』4年()の記事によると、は挙兵直前にに対して当社への奉幣を命じ、その後の討ち取りを行なった。また、頼朝は同年に平家軍との戦のため西に向かう際にも三嶋神を拝んだという。このような戦勝祈願に見えるように、当社は源頼朝から篤く崇敬され、頼朝からは治承4年(1180年)10月に御園?河原谷?長崎の神領の寄進、2年()6月に臨時祭料として河原谷?御園の寄進、同年8月には放生会料として糠田?長崎の寄進、4年()正月に参詣、6年()に神馬?剣の奉納が行われた。頼朝が開いたは、当社をや二所権現(?)と並んで信仰している。頼朝以後も鎌倉幕府将軍は代々当社に参詣しており、特に4代将軍?は最も多くの参詣を行なった。
この時代、鎌倉幕府の将軍?御家人はを従来の足柄越ではなく箱根越を利用した。これによって箱根路が活性化し、箱根手前に位置する当社には数多くの旅人が参詣した。東海道の紀行文には必ず当社のことが記されており、『』の作者(未詳)や、(『』上巻)、(『』『夫木抄』)、?(『夫木抄』)、一遍(『』)、(『』)などが参詣の様子を描写している。
に入り争乱が増えると、当社では戦勝祈願を行う例が多く見られた。当社は?からも篤い崇敬を受けたため、社領寄進が度々なされていた。
には当地を治めたの保護を受け、後北条氏からは造営の支援も行われた。11年()の解消に伴って当地は対の最前線になったため、度々兵火に遭ったとされる。後北条氏は積極的に当社の造営を支援したが、それが後北条氏にとっての重荷になったともいわれる。
、からは3年()に社領330石が寄進された(地割は神主100石、護摩堂25石、刑部大夫20石、在庁免25石、惣社人55石等)。9年()にはさらに200石が加えられ、江戸時代を通じて計530石を有していた。
後、4年()ににおいてに列し、「三島神社」と称した。戦後は「三嶋大社」と改称し、のに列している。
六国史における奉叙の記録
9年()5月22日、名神に預かる (『』所収『』逸文) - 表記は「三島神」。
3年()10月7日、従五位上 (『』) - 表記は「三島神」。
2年()12月15日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「三島大神」。
元年()6月26日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「三島大神」。仁寿2年記事と内容は重複。
元年()正月27日、従四位下から従四位上 (『』) - 表記は「三島神」。
貞観6年()2月5日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「三島神」。
貞観10年()7月27日、正四位下から従三位 (『』) - 表記は「三島神」。
六国史以後
正一位 (『』) - 表記は「三島大明神」。
三嶋大社の神主職は、の後裔を称する矢田部氏(やたべし)が代々世襲する。
伊豆国造について『』では、の時に若建命(わかたけのみこと)が国造に任じられたといい、この若建命は祖?天御桙命(あめのみほこのみこと)の8世孫であるという。矢田部氏に伝わる系図『伊豆国造伊豆宿禰系図』では、初代に天御桙命、第9代に若多祁命(若建命を指す)を記載する。
矢田部氏は、元々は日下部直(くさかべのあたえ、日下部氏)であったとされる。『』では14年()に外従七位下の日下部直益人(ますひと;系図では第19代)が「伊豆国造伊豆直(いずのくにのみやつこ いずのあたえ、伊豆氏)」姓を賜った。また、2年()に外従五位下の伊豆国造伊豆直乎美奈(おみな;系図では益人の子)が従五位下を賜ったと記載される。
系図によると、その後裔の伊豆貫盛(第30代)が三嶋神主となって以降、代々当社の祭祀に携わったという。伊豆久恒(第33代)の時には久恒に子が無かったため、弟の国盛(第34代)が「東神主五郎大夫」を、末弟の貞盛が「西神主四郎大夫」を称して後を継いだ。5年()の国盛の宮司補任を示す文書は現在にも残っている(ただし検討余地のある史料とされる)。その後は東大夫?西大夫が並び立って当社の社務を分担し、西大夫は二宮八幡宮の神主も兼務したという。東大夫と西大夫は代々継承されたが、南北朝期以降は西大夫は没落して東大夫のみとなった。以降の神主職は東大夫の世襲となり、一族は年間(-)に姓を「矢田部」に改めた上で、現在の宮司(第70代)に至っている。
社僧としては愛染院(別当)、大徳院?竜宝院?法正院(役僧)の4子院があった。また、には「国分寺」の称も見える。
三嶋大社は元は下田市白浜に所在したといわれる。『』逸文では社地に関する次の記載があるが、これは白浜鎮座時の描写とされる。
伊豆国言上。三島神。伊古奈比咩神。二前預名神。此神塞深谷摧高巌。平造之地。二千町許。作神宮二院。池三処。神異之事。不可勝計。
—『日本後紀』逸文 天長9年5月22日条
三島市での所在を示す最古の史料は『』4年()記事である。の『(一遍上人絵伝)』第6巻では、5年()に一遍が参詣した際の楼門?拝殿?楼門(神門)?幣殿?本殿からなる社殿が描かれている(ただし『一遍聖絵』には建築史学的に疑義がある)。現在、その様子は三嶋大社宝物館に模型で再現されている。
鎌倉時代以降の文書に見える造営?修復年次は、3年()、元年()、元年()、9年()、4年()、4年()、3年()、3年()、2年()、13年()、応永25年()、6年()、9年()、13年()、3年()、11年()、元年()、5年()、5年()、8年()、9年()、3年()、4年()、12年()、10年()。
上記のうち特に、江戸幕府3代将軍?による寛永期の造営で大規模な社殿が整えられた。その後の江戸期の社殿の様子を示す史料は多く、絵図では五重塔や護摩堂?経蔵といった仏教施設も見える。しかし嘉永7年(安政元年、1854年)に発生したによってほとんどは倒壊したため、社殿は幕末の慶応4年(1868年)にかけて再建された。その後は、大正12年(1923年)の、昭和5年()のによる被害の修復を経て現在に至っている。
境内の広さは14,057坪(4.6ヘクタール)。他に境外地として約2,200坪(0.72ヘクタール)を所有する。
本殿(左)?拝殿(中間の小屋根は神饌所)(国の)
拝殿(国の重要文化財)
主要社殿は、本殿?幣殿?拝殿からなるの複合社殿である。大社側ではこれらを「御殿(ごてん)」と総称する。いずれも末期の7年(元年、)の後に再建されたもので、2年()9月9日に落成した。境内にある主な建造物も、同時期の元年()にかけての再建である。
社殿の形式は、年間(-)の造営時を踏襲したものとされる。本殿は三間社で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。本殿?幣殿?拝殿いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿である。また本殿脇障子の神功皇后の説話に基づく彫刻を始めとして、本殿の内法上の小壁、本殿と拝殿の蟇股などの要所に彫刻が施されているが、これらは伊豆国名工の小沢希道、駿河国名工の後藤芳治良が競い合って完成させたものといわれる。これら社殿3殿は、江戸時代を代表する建造物であるとして国の重要文化財に指定されている。
拝殿前に立つ舞殿(ぶでん)は、本殿等と同時期の慶応2年(1866年)12月18日の再建。古くは「祓殿」と呼ばれる神楽祈祷を行う場であったが、のちに舞の奉納が主となったので「舞殿」と称されるようになったという。現在では、舞のほか各種神事でも使用される。舞殿には、中国?元代に編纂の「」を基にした彫刻が巡らされている。この舞殿は三島市指定文化財に指定されている。
神門(しんもん)もまた、本殿等と同時期の慶応3年(1867年)8月10日の再建。御殿同様に総欅造である。舞殿とともに三島市指定文化財に指定されている。
そのほか、境内には神馬舎(戦後完成)、総門(昭和6年(1931年)完成)、旧総門の芸能殿(慶応4年(1868年)2月11日完成)、客殿等の社殿がある。
舞殿(三島市指定文化財)
神門(三島市指定文化財)
著名な老木として、神門内に(金木犀)がある。この樹木はウスギモクセイ(薄黄木犀)の雄木で、樹齢約1,200年、樹高10メートル以上を測る老木?巨木である。「2度咲き」の性質を持つが、特に2度目の9月下旬から10月上旬にかけては淡黄色の花で満開になる。このキンモクセイは国の天然記念物に指定されている(詳細は「」を参照)。
また、境内に広がる鎮守の森は「三嶋大社社叢」として三島市指定天然記念物に指定されている。
神池(しんち) - 『吾妻鏡』によれば源頼朝がこの池でを行なったという。『一遍聖絵』でも描かれている。
神鹿園(しんろくえん)
頼朝腰掛石、腰掛石 - 神馬舎の隣に所在。
牛石(うしいし) - 三島七石の1つ。社務所近くに所在。
たたり石 - 昔は東海道にあって交通整理の役割を担ったという。境内入り口近くに所在。
現在の摂末社は、摂社2社?末社13社の計15社(いずれも境内社)。古くは他にも多数の摂末社があったが、現在は事実上独立している。
祭神:物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、(ほんだわけのみこと、)、、妃大神
社格:神階帳「正五位上 第三王子并十八所御子達」、伊豆国元二宮
例祭:8月15日 - 本社例祭の前日。
「わかみやじんじゃ」。古くは「八幡宮」「若宮八幡宮」「若宮社」等とも称された。祭神の物忌奈乃命は三嶋神ので、のの祭神である。
古くは「元ツ神」と呼ばれた地主神で、大社西の二ノ宮町に鎮座したという(西若町の若宮神社付近と推定。移転時期不明)。社家は西大夫で、『吾妻鏡』では「二宮八幡宮」に料所を付す記事が見える。鎌倉時代中期の西大夫没落とともに衰退、のち「若宮」と称されるようになり、さらに大社境内に遷された。この遷座とともに三宮の浅間神社が二宮に格上げされたという。現在の社殿は4年()8月20日の再建。
社地移転に関する伝承として、三嶋神が地主神の若宮八幡に藁一把分だけの土地を譲るよう頼み、若宮八幡が了承すると、三嶋神は藁束を解いて一本ずつ輪にして広大な社地を占有するに至ったと伝わる。
祭神:波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命 - 三嶋神の后神6柱。総称して「見目6柱」とも。
例祭:11月14日
「みるめじんじゃ」。6柱は三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれる。古くは、本社例祭の前々日に幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀礼が行われたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)9月3日の再建。
舞殿の東方に鎮座し次の5社を祀る。祭神はいずれも不詳。
大楠社 - 例祭は3月15日、11月15日。
天神社 - 三嶋神御子神か。
第三社 - 三嶋神御子神。
舞殿の西方に鎮座し次の5社を祀る。東五社同様、祭神は不詳。
飯神社 - 三嶋神御子神。例祭は1月1日。
酒神社 - 三嶋神御子神。例祭は1月3日。
第二社 - 三嶋神御子神。
祭神:、、気吹戸主神、速佐須良姫神 - 。
例祭:6月30日、12月31日
「はらえどじんじゃ」。通称「浦島さん」。境内西方、桜川が流れ込む池中の島に鎮座する。当社は国司によってこの地に奉斎され、国司の大社参拝の際は必ず当地で祓いを行なったという。『一遍聖絵』では相当な規模の社殿が描かれている。現在の社殿は昭和11年()7月8日の改築。本殿は、拝殿は。
例祭:1月1日
境内南方の神池中の島に鎮座する。北条政子の勧請と伝える。
伊豆魂神社
「いづたまじんじゃ」。伊豆出身の戦没者2372柱を祀る。
伊豆魂神社
かつて三嶋大社に属した摂末社。下記はいずれも大社境外に所在する元摂社で、現在は独立。
三嶋大社の元摂社(以下で全てであるかは不明)。
鎮座地:三島市芝本町6-3()
祭神:、波布比売命(相殿神に、、、の4柱)
社格:神階帳「正一位 千眼大菩薩」、伊豆国三宮のち二宮
式内社の火牟須比命神社(の摂社の雷電神社か)遥拝所か
「せんげんじんじゃ」。古くは三嶋大社八所別宮の1所であった。式内社「伊賀牟比売命神社」論社に挙げられるが、有力視はされていない。伊豆山神社の本地仏?の仏名「せんげん」から「浅間」の神名に転訛したとされる。この浅間神社は元は三宮であったが、二宮八幡宮が大社境内に遷座してのち二宮になったという。例祭は7月15日?16日。
六所王子神社
鎮座地:三島市日の出町6-90()
祭神:三嶋神の御子神6柱
社格:神階帳「正五位上 六所王子」
「ろくしょおうじじんじゃ」。神名は詳らかでなく、三嶋神の御子神であるとのみ伝えられる。
鎮座地:三島市北田町4-7()
社格:神階帳「従一位 やきわらの明神」、伊豆国三宮か
名神大社の()遥拝所か
「やなぎはらじんじゃ」。古くは三嶋大社八所別宮の1所であった。一説に、楊原神社の地が駿河国に編入されたことにより中島に遷祀、のち同所に徳川家光が御殿を営むにあたって現在地に遷座したともいう。境内には三島七石の1つ「蛙石」がある。例祭は7月5日。
鎮座地:三島市一番町19(内、)
社格:神階帳「従一位 廣瀬明神」、伊豆国四宮
式内社の()遥拝所か
「ひろせじんじゃ」。楽寿園内の池中の島に鎮座する。一帯が小松宮の別邸になったので一時は浅間神社境内に遷座したが、のち楽寿園が公園になるとともに園内に再建された。例祭は7月14日(楽寿園の公園記念日)。
鎮座地:三島市大社町8-12()
社格:神階帳「正五位上 角の明神」、伊豆国五宮か
「ひすみじんじゃ」。古くは三嶋大社八所別宮の1所であった。例祭は5月15日。
鎮座地:三島市川原ヶ谷和田51()
祭神:(配祀に、愛宕神、、)
社格:神階帳「正一位 天満天神」
名神大社の()遥拝所か
「てんじんじゃ」。明治24年(1891年)に付近の八幡社?愛宕社?稲荷社?山神社を合祀。例祭は9月25日。
鎮座地:三島市西若町8-7()
「わかみやじんじゃ」。国司勧請の八幡神社であるといい「若宮八幡宮」と称された。境内摂社の若宮神社との関係は不詳(『増訂豆州志稿』では言及なし)。大正11年(1922年)、同じく国司勧請と伝えられていた天神社を合祀(現在は境内社)。例祭は5月15日?16日。
賀茂川神社
鎮座地:三島市加茂川町17-21()
祭神:ほか10柱
社格:旧村社
「かもがわじんじゃ」。古くは「祇園社」と称された。大正4年()に宮町の十柱神社を合祀し「賀茂川神社」と改称した。三嶋大社及び三島宿の(東北)の神として崇敬される。7月8日に三嶋大社の舞殿に渡御し、7月15日に三島の悪疫除を行う神事が古くから行われている。例祭は4月10日。
鎮座地:三島市谷田164()
「たがじんじゃ」。古くは「田川神社(田河神社)」とも。例祭は10月15日。
鎮座地:三島市梅名1()
祭神:(配祀に9柱)
社格:神階帳「従四位上 河原の明神」論社、旧村社
「うないじんじゃ」。式内社「阿米都瀬気多知命神社」または「伊波氐別命神社」の論社に挙げられるが、有力視はされていない。左内神社とともに三嶋大社の御門守護神。両社は下田街道の左右に鎮座したという。例祭は10月18日。
鎮座地:三島市中島字西310-2()
祭神:阿米都瀬気多知命
社格:式内社「阿米都瀬気多知命神社」論社、式内社「父梨神社」論社、旧村社
「さないじんじゃ」。右内神社とともに三嶋大社の御門守護神。もとは中島字園田に鎮座したが、明治19年(1886年)の火災により現在地に遷座した。例祭は7月17日。
浅間神社(芝本町)
伊豆国三宮のち二宮。
六所王子神社(日の出町)
楊原神社(北田町)
伊豆国三宮か。
広瀬神社(一番町)
伊豆国四宮。
日隅神社(大社町)
伊豆国五宮か。
天神社(川原ヶ谷)
若宮神社(西若町)
賀茂川神社(加茂川町)
多賀神社(谷田)
右内神社(中島)
左内神社(梅名)
若宮神社例祭、菅奉納祭、宵宮祭 ()
例祭、手筒花火神事 ()
崇敬会大祭、流鏑馬神事、後鎮祭 ()
三嶋大社の(れいさい)は、毎年に行われる。例祭自体は16日であるが、各種神事が15日の摂社?若宮神社の例祭に始まって17日まで執り行われる。三嶋大社では古くから4月?8月?11月の2の酉日に大祭が行われたが、に入って特に8月の祭が例祭に定められた。4月?11月の祭は、現在も「酉祭」として続いている。8月15日から17日の3日間は三島市内でも「三島夏祭り」と称して、の出陣を模した行列が催されるほか、山車が出て「三島囃子(みしまばやし)」(静岡県指定無形民俗文化財)が披露されるなど最も賑わいを見せる。
。正月に五穀豊穣を祈る予祝神事。本殿で「田祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に荒むしろを敷いて田所とし、に始まって種蒔きや鳥追いまでを模擬的に演じる。終盤では雷鳴として太鼓を鳴らして夕立に遭う所作を行う(雨乞いを意味する)。この神事から、三嶋神に農耕神の性格を見る指摘もある。神事は静岡県指定無形民俗文化財に指定されている。
。「かゆうらしんじ」。年頭に作物の収穫を占う神事。神事の前には「小豆粥祭」として、小豆の粥の中に餅を割り入れて各種神饌と共に供える祭を行う。そしてとして、この粥の中に作物の名前を書き込んだ篠竹の筒を入れて炊き、竹筒への粥の入り具合から作物の収穫占いを行う。
。「ほうしゃしんじ」。年頭に悪病退散を祈る神事。本殿で「奉射祭」を行なったのち射場で行う。神事では大的に矢を放って平穏を祈る。神事の後に大的を破り取って災難除けのお守りとする習わしがある。
。「めいげんしき」。悪霊退散を祈る神事。本殿で「追儺祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に祭壇を設け、祝詞奏上ののち弓の弦を鳴らす。これによって邪気が祓われるとする。
(例祭翌日)。天下泰平?五穀豊穣を祈りを奉納する神事。神事は平安時代から続くといい、記録では源頼朝が文治元年(1185年)6月に流鏑馬を奉納したことが見える。古くは4月?8月の酉祭と6月20日の年3回行われたというが、明治初年に廃絶した。その後昭和59年(1984年)に再興されて現在に至っている。
梅蒔絵手箱(蓋表)()
梅蒔絵手箱 一具(工芸品)
鎌倉時代、源頼朝の妻?の奉納と伝わる手箱。縦25.8センチメートル、横34.5センチメートル、高さ19.7センチメートルで、代表的な鎌倉時代の蒔絵工芸品である。合口造の箱で、蓋には甲盛りがあり、典型的な鎌倉期の手箱の器形を示す。蓋表と身側面には沃懸地(いかけじ)に梅樹、几帳、飛雁、水禽などを高蒔絵で表し、梅花には銀の平文(ひょうもん)を用いる。蓋表には図中にまぎれるように銀の平文で「榮?傳?錦?帳?雁?行」の6文字が散らされているが、これは(白楽天)が友と昇進を遂げた慶びを綴った(『』所収)の詩意を表したものであり、「榮傳錦帳花聯萼 彩動綾袍雁趁行」(栄は錦帳を伝え花は萼を聯(つら)ねたり、彩は綾袍を動かし雁は行を趁(お)う」という詩句に由来する。
手箱内には以下の内容品(化粧道具)一式が納められており、これらも箱とともに国宝に指定されている。
白銅鏡 1面、蒔絵鏡箱 1合、蒔絵歯黒箱 2合、蒔絵白粉箱 1合、蒔絵薫物箱 2合、螺鈿櫛 18枚、螺鈿櫛残欠 4枚、平元結 2本、銀軸紅筆 1本、銀軸眉作 1本、銀鋏 1箇、銀鑷 1箇、銀笄 1本、銀髪飾 4枚(附:銀菊形鋺 1口、金銅扇形箱 1合、金銅菊文箱 1合、組紐残欠 1綴、袋残欠 1綴)
この手箱は、鎌倉期に盛行する高蒔絵の技法を駆使したこの時代を代表する漆工芸品であり、内容品を存する手箱としては現存最古のものである。現在はに寄託中。三嶋大社宝物館には、3年半かけて再現された復元品が展示されている。昭和27年11月22日指定。
本殿、幣殿及び拝殿(附 棟札1枚)(建造物) - 平成12年5月25日指定。
太刀 銘宗忠(工芸品)
鎌倉時代初期、の宗忠による作刀。刃長81.8センチメートルで、平安時代末期の風潮を残す。本刀は、明治20年に旧宮内省から三嶋大社に寄進されたものである? 明治45年2月8日指定。
短刀 銘三嶋大明神他人不与之 貞治三年藤原友行(工芸品)
南北朝時代、3年()の作刀。明治44年4月17日指定。昭和23年に盗難。
脇差 銘相模国住秋義伊豆三嶋大明神奉拝 佐藤松千代貞成(工芸品)
南北朝時代、相模国の刀工?秋義による作刀で、佐藤貞成による奉納。大正9年4月15日指定。
紙本墨書般若心経 源頼家筆(書跡)
鎌倉時代、3年()8月10日に鎌倉幕府第2代将軍?が奉納したもの。頼家は将軍に就任したものの政争の中で病床につき、平癒祈願としてこの般若心経を筆写?奉納したとされる。現存では唯一の頼家自筆の書とされる。平成6年6月28日指定。
三嶋大社矢田部家文書 592通(古文書)
三嶋大社とその宮司家の矢田部家に伝わる、平安時代から江戸時代にかけての古文書群。三嶋大社所蔵分155通、矢田部家所蔵分437通からなるが、一括で指定されている。中世では鎌倉時代の源頼朝?北条時政、南北朝時代の足利尊氏?足利直義といった主立つ武将の文書が見える。また近世では、三嶋大社境内や三島地域の変遷を伝える。平成6年6月28日指定。
- 昭和9年5月1日指定。
有形文化財
並びに具書(典籍)
室町時代、35年(、元年)の奉納で、『三島本日本書紀』と称される。『日本書紀』は全30巻から成るが、本書では巻1から巻3まで(神代上、神代下、神武天皇紀)と具書3巻(中臣祓解除?神口決、二十一社守護記)が保存される。流出部の一部は國學院大學図書館にある。良海?快尊?重尊?真尊(助筆)ら4人が応永35年(1428年)に大社に参籠して書写を行い、願主?施主の正本が奉納したと見られる。昭和24年4月13日に国のに認定、昭和55年11月28日に静岡県の有形文化財に指定。
無形民俗文化財
- 昭和47年3月24日指定。
有形文化財
舞殿?神門(建造物) - 昭和41年2月7日指定。
三四呂人形(みよろにんぎょう) 2躯(工芸品) - 昭和58年10月7日指定。
天然記念物
三嶋大社社叢 - 平成3年3月4日指定。
江戸時代前期、元年()の高力長吉の作刀、?(高長)の奉納。
後水尾院和歌懐紙
江戸時代前期、14年()にの宸筆で記された和歌。
三十六歌仙縫取絵額
安土桃山時代から江戸時代初期の作と見られ、(お万の方;徳川家康側室)の奉納と伝える。
40座以上の式内社を有する郡
、の祭祀には度重なるの火山活動が深く関係した。その活動は7世紀半ばから8世紀初めにかけてと、9世紀にそれぞれピークを迎えたとされる。当時の火山活動は人々にとって重大な関心事で、その噴火は神の業と見なされていた。そのため、伊豆国では火山に関連した多数の神社が祀られるとともに、の技術も発達した。
当時の祭祀の様子を示す史料として、の『』がある。同帳では伊豆国に全国9位相当の92座のを載せるが、1郡あたりにした場合には式内社の多いことで知られる?をも大きく上回る。伊豆国でも特に(伊豆半島南部と伊豆諸島)が重要視されたと見られ、には伊豆国の半数の46座が記載されるが、1郷あたりで見ると全国でも突出した密度になる(右表参照)。この46座のうち20数座は伊豆諸島の鎮座とされる。それらの神々の中でも筆頭に位置づけられたのが「伊豆三島神社」、現在の三嶋大社である。「三島」とは「御島」の謂とされるように、「三嶋神」とは伊豆諸島全体を象徴する神を意味するとされる。
三嶋神については『』において、本后として阿波神、阿波神のとして物忌奈乃命、その他に後后(伊古奈比咩命とされる)のあった旨の記載がある。神名帳記載の神々も、同記事のように三嶋神の一族に位置づけられたと考えられている。神名帳に見えない一族神の縁故関係を考証する史料としては、中世に記された「」が知られる。「三宅記」は伊豆地方の神々に関する?で、所載の神名には神名帳との一致も見られることから、一族神の類推に使用されている。神名帳や「三宅記」から三嶋一族神と考証される神々の一覧は次の通り(赤字は女神)。現在の比定社はそれぞれ「」「」を参照。
伊豆三島神社名神大
三嶋大明神
波布比売命神社
 阿治古命神社
 波治命神社
羽分の大后
 おほい所(太郎王子)
 すくない所(次郎王子)
久尓都比咩命神社
 多祁美加々命神社
水戸の口の大后
 大宮王子(大三王子)
 弟三王子
阿波命神社名神大
 物忌奈命神社名神大
長浜の御前
 たたない
 たうない
優波夷命神社
 許志伎命神社
八十八ヱの后
 五郎王子
 伊大弖和気命神社
 阿豆佐和気命神社
伊古奈比咩命神社名神大
 阿米都和気命神社
 穂都佐和気命神社?
天地今宮の后
 あんねい(飯王子)
 まんねい(酒王子)
伊賀牟比売命神社
ゐがいの后
 4子(名称不明)
伊波乃比咩命神社
 うらみ子
佐伎多麻比咩命神社
 南子命神社
 加弥命神社
 夜須命神社
 弖良命神社
 志理太宜命神社
 久良恵命神社
 片菅命神社
 波夜志命神社
八王子の母御前
 かたすげ
「」も参照
三島暦(みしまこよみ)は、三嶋大社の暦師?河合家(大社の下社家とされる)から頒布された暦。起源不詳ながら古くから使用された暦で、伊豆地方を中心に東海?関東?甲信地方に広まった。初出は『空華日用工夫略集』7年()3月4日条、最古の暦は9年()の版暦。
大宮町二丁目1番5号
は夜間も自由。ただし、境内駐車場の利用や?売店等の営業時間は、通常朝8時30分頃から夕方5時頃まで。
開館時間:午前9時 - 午後4時30分(入館受付は午後4時まで)
拝観料:一般500円/大学生?高校生400円/小中学生300円
交通アクセス
(徒歩5分)
?または伊豆箱根鉄道駿豆線
(徒歩10分)
で「大社前」バス停下車 (徒歩すぐ)
沿いに三嶋大社駐車場(有料)
大晦日から正月三が日、および三島夏祭り期間中(毎年8月15日 - 8月17日)は、境内駐車場は閉鎖(観光バスのみ利用可)。
レンタサイクル
かわせみ号 - 南口観光案内所?三嶋大社駐車場?駐輪場の3ヶ所で乗り捨て可能。
- 境内には国分寺創建当時の塔跡が残る。
「御島」が具体的にどの島を指すかについては、伊豆諸島の総称とする説、大島を指す説、三宅島を指す説、大島?三宅島?新島の3島を指す説がある (, p. 90)。
祭神2柱の記載は、社誌?公式サイト等における三嶋大社の公式表記による。『増訂豆州志稿』では、主祭神に加えて4柱を配祀するとする。その中で、4柱のうち2柱は?とするが、ほか2柱は未詳という (, p. 28) 。
『日本後紀』逸文の天長9年条に神階叙位の記載は無いが、『続日本後紀』承和7年条の「後后が冠位を授かった」ことに対する本后(阿波命)の怒りの記事から、この頃に従五位下の叙位が推測される (, p. 46-48)。
奈良時代の木簡では「稲梓郷(いなずさごう)」が見えており、この「稲梓郷」を踏襲して平安時代に「大社郷」が成立したとされる (, p. 91)。
『伊豆国神階帳』記載の「正一位天満天神」が、物忌奈命神社の遥拝所とされる天神社(三嶋大社元摂社)に比定されることによる。
沃懸地(いかけじ)とは、漆工芸の技法の一つで、文様の地となる部分に金の細粉を密に蒔き付けたもの。
平文(ひょうもん)とは漆工芸の技法の一つで、器面に金、銀などの薄板を文様の形に切り抜いたものを貼付するもの。
盗難の時期は、文化庁編『国宝?重要文化財総合目録』(第一法規、1980)および文化庁文化財保護部監修『文化財保護行政ハンドブック 美術工芸品編』(ぎょうせい、1998)p.126、による。
この「興島(おきのしま)」は、『静岡県史』では三宅島または八丈島に (, p. 614)、『静岡県の歴史』では三宅島に比定される (, p. 103)。
『続日本後紀』承和7年(840年)9月23日条。
『延喜式』神名帳 伊豆国賀茂郡条。
『続日本紀』天平13年(741年)3月9日条。
『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月17日条。
『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(参照)。
『釈日本紀』15所収『日本後紀』逸文 天長9年(832年)5月22日条(参照)。
『釈日本紀』15所収『日本後紀』逸文 天長9年(832年)5月19日条(参照)。
『続日本後紀』承和7年(840年)10月14日条。
『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月7日条(参照)。
『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)12月15日条(参照)。
『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(参照)。
『日本三代実録』貞観6年(864年)2月5日条(参照)。
『類聚国史』16(神祇16神位4) 貞観10年(868年)7月27日条(参照)。
『延喜式』26(主税上) 出挙本稲条(参照)。
『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)6月26日条(参照)。
『先代旧事本紀』「国造本紀」伊豆国造条。
『続日本紀』天平14年(742年)4月10日条。
『続日本紀』宝亀2年(771年)3月22日条。
『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月20日条。
『三島市史』を代表とする説(, p. 284より)。
『国造制の研究 -史料編?論考編-』八木書店、2013年、p. 79。
『日本古代氏族人名辞典 &普及版&』(吉川弘文館、2010年)伊豆氏項。
- 国指定文化財等データベース()
境内説明板。
元摂社の記載は『増訂豆州志稿 巻八上』君澤郡節、『三島市史 下』第7章第2節における各社の解説に基づく。各社の読み?鎮座地は、静岡県神社庁の三島市の神社一覧のページによる。
各所説明板(三嶋大社境外)。
- 国指定文化財等データベース()
『週刊朝日百科 日本の国宝』86(朝日新聞社、1998)、pp.9 - 189 - 190(解説執筆は奥村徹也)
荒川浩和『漆工芸』(カラーブックス579)(保育社、1982)、p.19
『重要美術品等認定物件目録』(思文閣、1972)、第3部p.28
足立鍬太郎 『道守』 伊古奈比咩命神社社務所、1918年、付録31-32。 - (近代デジタルライブラリー)参照。
『増訂豆州志稿 巻八上』 秋山章纂修、萩原正平増訂。
() (早稲田大学図書館)参照。
三嶋大社発行書籍?現地説明板
『三嶋大社 &略史& (改訂版)』 三嶋大社、2001年。
神社由緒書「三嶋大社」
境内説明板
『三島市誌 上』 三島市誌編纂委員会編、三島市、1988年。
『三島市誌 下』 三島市誌編纂委員会編、三島市、1988年。
『静岡県史 通史編1』 静岡県、1994年。
『下田市史 資料編 1 -考古?古代?中世-』 下田市教育委員会編、下田市教育委員会、2010年。
『 22 静岡県』 、1982年。。
「伊古奈比咩命神社」、「三嶋大社」、「三島郷」
『 第13巻』 、1992年。。
小和田哲男「三島」、岡田芳朗「三島暦」、福田以久生「三島神社文書」、三橋健「三嶋大社」
『日本歴史地名体系 13 東京都の地名』 、2002年。。
「伊豆諸島」
『日本歴史地名体系 22 静岡県の地名』 、2000年。。
「伊豆国」、「三嶋大社」、「伊古奈比咩命神社」
『伊古奈比咩命神社』 伊古奈比咩命神社、1943年。
(近代デジタルライブラリー)参照。
三橋健「三嶋大明神縁起」、『国学院大学紀要』第16巻、国学院大学、1978年、 83-125頁。
『式内社調査報告 第10巻』 式内社研究会編、出版部、1981年。
梅田義彦「伊豆三嶋神社」、鎌田純一「伊古奈比咩命神社」
『日本の神々 -神社と聖地- 10 東海』 編、、1987年。。
神野善治「三嶋大社」、神野善治「伊古奈比咩命神社」、坂口一雄「物忌奈命神社?阿波命神社」
『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年。。
三嶋大社(公式サイト). 日閲覧。
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三島市. 日閲覧。
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國學院大學21世紀COEプログラム「神道?神社史料集成」. 日閲覧。
『三嶋大明神縁起』
通称「」。鎌倉時代末期の完成か。伊豆地方に伝わる神仏縁起で、三嶋神を中心とした神々の由緒を記す(詳細?翻刻は「」を参照)。
『伊豆国三嶋神主家系図』
三嶋大社宮司家?矢田部家の家系図。
翻刻(一部):『下田市史 資料編 1 -考古?古代?中世-』 下田市教育委員会編、下田市教育委員会、2010年、462-463頁。
『伊豆国造伊豆宿禰系図』
同じく矢田部家の家系図。『伊豆国三嶋神主家系図』とは異なる系図を載せる。
『 神祇部26』神宮司庁、1896年-1914年、三島神社項。
(近代デジタルライブラリーより)54-60コマ参照。
安津素彦?梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』社、1968年、56-57頁。
?土岐昌訓編集『神社辞典』、1979年、318-319頁。
『日本の神社を知る「事典」』、1989年、74-78頁。
上山春平他『日本「神社」総覧』、1992年、124-125頁。
『神道の本』、1992年、216頁。
() - 祭神の阿波咩命は三嶋神の本后。
() - 祭神の物忌奈命は三嶋神と阿波命との御子神。
() - 祭神の伊古奈比咩命は三嶋神の後后。
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(公式サイト)
、(三島市ホームページ「三島アメニティ大百科」)
(静岡県神社庁)
(國學院大學21世紀COEプログラム「神道?神社史料集成」)
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